[日本プロレス時代]
1960年9月30日(昭和35年9月30日)
台東体育館 対田中米太郎戦でプロレスラーとしてデビュー(股裂きで初勝利)。
1961年7月1日(昭和36年7月1日)
初渡米。芳の里、マンモス鈴木とともに武者修行。
1961年8月25日(昭和36年8月25日)
サンディエゴ アート・マハリックを相手にアメリカマットデビュー。
1962年6月(昭和37年6月)
シカゴ アンフェシアターでNWA王者バディ・ロジャースへの挑戦。
1963年2月4日(昭和38年2月4日)
ロサンジェルス オリンピック・オーデトリアムでWWA王者ザ・デストロイヤーに挑戦(反則勝ちを収めるも規定により王座は獲得ならず)。
1963年3月17日(昭和38年3月17日)
力道山とともに凱旋帰国。
1963年3月22日(昭和38年3月22日)
第5回ワールドリーグ参加。
馬場正平からジャイアント馬場のリングネームとなる(4勝2敗1分けの好成績)。
1963年10月7日(昭和38年10月7日)
再度渡米武者修行へ。
1964年2月5日(昭和39年2月5日)
デトロイト オリンピック・スタジアムでNWA王者 ルー・テーズに挑戦(2対1で敗れる)。
1964年2月17日(昭和39年2月17日)
ニューヨーク マジソン・スクエア・ガーデンでWWWF王者ブルーノ・サンマルチノに挑戦(引き分け)。
1964年2月28日(昭和39年2月28日)
ロサンジェルス WWA王者フレッド・ブラッシーに挑戦。
1964年4月3日(昭和39年4月3日)
帰国、即第6回ワールドリーグ参加。
1964年5月29日(昭和39年5月29日)
札幌で豊登と組んでキニスキー&ハリケーン組からアジアタッグ選手権奪取。
1964年12月(昭和39年12月)
3度目の渡米。
1965年11月24日(昭和40年11月24日)
NWA代表のディック・ザ・ブルーザーを下し、復活インターナショナル・ヘビー級王座のチャンピオンとなる。
1966年2月28日(昭和41年2月28日)
東京体育館にてルー・テーズからインターナショナル王座を防衛。
1966年11月5日(昭和41年11月5日)
吉村道明とのコンビでインターナショナルタッグ王座を奪取。
1966年12月3日(昭和41年12月3日)
日本武道館 フリッツ・フォン・エリックを相手にインターナショナル王座7度目の防衛。
1967年3月2日(昭和42年3月2日)
蔵前国技館 WWWF世界王者ブルーノ・サンマルチノを相手にインターナショナル王座を防衛。
1967年5月17日(昭和42年5月17日)
横浜文化体育館 ザ・デストロイヤーを下し、ワールドリーグ2度目の優勝。
1967年10月31日(昭和42年10月31日)
アントニオ猪木とインターナショナルタッグを奪取。
1968年8月7日(昭和43年8月7日)
大阪球場 ブルーノ・サンマルチノを相手にインター王座防衛。
1968年12月6日(昭和43年12月6日)
現役NWA世界王者 ジン・キニスキーを相手にインター王座防衛。
1969年9月13日(昭和44年9月13日)
ロサンジェルス オリンピック・オーデトリアムでザ・シークを相手にインター王座を成功。
1969年12月3日(昭和44年12月3日)
NWA世界王者 ドリー・ファンク・ジュニアと60分時間切れ。
1970年5月20日(昭和45年5月20日)
ドン・レオ・ジョナサンを下し、ワールド・リーグ戦制覇。
1970年7月30日(昭和45年7月30日)
NWA世界王者 ドリー・ファンク・ジュニアと52分35秒両者リングアウト。
1971年5月19日(昭和46年5月19日)
ワールド・リーグ戦優勝。
1972年5月12日(昭和47年5月12日)
ワールド・リーグ戦優勝。
この生中継を最後に日本テレビは日本プロレスの中継を終了。
1972年7月29日(昭和47年7月29日)
日本プロレスに辞表提出。
1972年8月18日(昭和47年8月18日)
日本プロレスでのラストファイト。12年4か月在籍。
[全日本プロレス時代]
1972年9月9日(昭和47年9月9日)
全日本プロレス設立発表。
1972年10月21日(昭和47年10月21日)
全日本プロレス旗揚げ試合。
1972年10月22日(昭和47年10月22日)
日大講堂で世界ヘビー級ベルトをかけてブルーノ・サンマルチノと対戦(引き分け)。
1972年12月9日(昭和47年12月9日)
ザ・デストロイヤーを下し、陣営に引き入れる。
1973年2月(昭和48年2月)
全日本プロレス NWA加盟。
1973年2月27日(昭和48年2月27日)
東京体育館 ボボ・ブラジルを破り、世界選手権争覇戦を終了。
インタ王座のベルトを巻く。
1973年3月16日(昭和48年3月16日)
PWF世界ヘビー級初代王者に認定される。
1973年4月21日(昭和48年4月21日)
福井 マーク・ルーインを下し、第1回チャンピオン・カーニバル制覇。
1973年10月9日(昭和48年10月9日)
凱旋帰国の鶴田友美デビュー戦でパートナーをつとめ、ザ・ファンクスと対戦。
1974年6月24日(昭和49年6月24日)
10年ぶりにマジソン・スクエア・ガーデンに出場、ゴリラ・モンスーンを倒す。
1974年12月2日(昭和49年12月2日)
鹿児島 ジャック・ブリスコを下し、第49代NWA世界ヘビー級王者となる(日本人初の快挙)。
1975年5月3日(昭和50年5月3日)
日大講堂 ブルーノ・サンマルチノとWWWF,PWFダブルタイトルマッチ。
1975年7月25日(昭和50年7月25日)
日大講堂 フリッツ・フォン・エリックをテキサス・デスマッチで倒す。
1975年12月2日(昭和50年2月2日)
オープン選手権開催。
1975年12月11日(昭和50年12月11日)
力道山13回忌特別興行。
1975年12月18日(昭和50年12月18日)
川崎市体育館 ホースト・ホフマンを下し、オープン選手権優勝。
1976年7月24日(昭和51年7月24日)
ビル・ロビンソンを相手にPWF王座を防衛。
1977年5月14日(昭和52年5月14日)
ジャンボ鶴田を下し、チャンピオン・カーニバル優勝。
1977年10月29日(昭和52年10月29日)
大木金太郎とPWF、アジアのダブルタイトルマッチに勝利。
1977年12月2日(昭和52年12月2日)
世界オープン・タッグ選手権開催。
1978年4月7日(昭和53年4月7日)
仙台 ブッチャーを下し、チャンピオン・カーニバル優勝。
1978年12月15日(昭和53年12月15日)
ジャンボ鶴田と組み世界最強タッグ決定リーグ戦優勝。
1979年2月10日(昭和54年2月10日)
シカゴ アブドーラ・ザ・ブッチャーからPWF王座を奪還。
1979年8月26日(昭和54年8月26日)
東京スポーツ社主催「夢のオールスター戦」開催。
1979年10月31日(昭和54年10月31日)
愛知 ハーリー・レイスからNWA世界王座を奪取(第55代王者に2度目の戴冠)。
1980年4月25日(昭和55年4月25日)
高知 ザ・シークとのシングルマッチ(国内公式戦3000試合連続出場記録)。
1980年6月18日(昭和55年6月18日)
ハワイ 18人参加のバトルロイヤルに出場。アンドレ・ザ・ジャイアントと初顔合せ。
1980年6月28日(昭和55年6月28日)
デトロイト タッグ王座決定ワンナイトトーナメントにジャンボ鶴田とのコンビで出場(見事優勝)。
1980年9月4日(昭和55年9月4日)
佐賀 ハーリー・レイスより3度目のNWA世界王座奪取(第57代王者)。
1980年12月11日(昭和55年12月11日)
世界最強タッグ決定リーグ戦(ジャンボ鶴田とのコンビで優勝)。
1981年1月18日(昭和56年1月18日)
AWA世界、PWFダブルタイトルマッチ バーン・ガニア(引き分ける)。
1981年4月30日(昭和56年4月30日)
大阪 ブルーザー・ブロディからフォール勝ちを奪い、チャンピオン・カーニバル優勝。
1981年10月9日(昭和56年10月9日)
全日本プロレス創立10周年記念興行。
ブルーノ・サンマルチノと組んでタイガー・ジェット・シン、上田馬の介組と対戦 。
1982年2月4日(昭和57年2月4日)
東京体育館 スタン・ハンセンと初対決、PWF王座を防衛。
1982年4月16日(昭和57年4月16日)
第10回チャンピオン・カーニバル7度目の優勝。
1983年2月11日(昭和58年2月11日)
ミズーリ州セントルイス ハーリー・レイスよりPWF王座を奪回。
1984年4月25日(昭和59年4月25日)
横浜での試合で首を負傷。連続試合出場記録が3711でストップ。
1984年6月22日(昭和59年6月22日)
新日本プロレス興行との業務提携を発表。
1984年7月31日(昭和59年7月31日)
蔵前国技館 スタン・ハンセンよりPWF王座を奪還。
1985年6月21日(昭和60年6月21日)
日本武道館 ラッシャー木村を破りPWF防衛。
1985年10月21日(昭和60年10月21日)
両国国技館 世界初のNWA,AWA世界ダブルタイトルマッチを実現させる。
1987年10月1日(昭和62年10月1日)
キャピトル東急ホテルで全日本プロレス創立15周年記念パーティー。
1988年10月28日(昭和63年10月28日)
ラッシャー木村との義兄弟タッグ実現。
1989年2月25日(平成1年2月25日)
義兄弟タッグで世界タッグ挑戦。
1990年4月14日(平成2年4月14日)
東京ドーム 「日米レスリングサミット」開催。
1990年9月30日(平成2年9月30日)
後楽園ホール デビュー30周年記念特別試合。
アブドーラ・ザ・ブッチャーと組んでアンドレ・ザ・ジャイアント&スタン・ハンセン組と対戦。
1990年11月30日(平成2年11月30日)
帯広 試合中、左大腿骨亀裂骨折(三か月の入院)。
1991年6月1日(平成3年6月1日)
日本武道館 「復活の日」(183日ぶりの復帰戦を飾る)。
1992年10月21日(平成4年10月21日)
日本武道館 旗揚げ20周年記念試合。
1993年4月20日(平成5年4月20日)
福島体育館 前人未到の5000試合出場。
1993年6月1日(平成5年6月1日)
日本武道館 5000試合達成記念試合。
1994年3月5日(平成6年3月5日)
日本武道館 ファン投票による「夢のカード」出場。
スタン・ハンセンと組んで三沢光晴、小橋健太組と対戦。
1995年3月24日(平成7年3月24日)
後楽園ホール 川田利明、田上 明と組んでスタン・ハンセン、三沢光晴、小橋健太と対戦。
1995年10月25日(平成7年10月25日)
日本武道館 デビュー35周年記念試合。
スタン・ハンセン、ジャンボ鶴田と組み、田上明、大森隆男、本田多聞に快勝。
1996年9月29日(平成8年9月29日)
後楽園ホール デビュー36周年記念試合。
1996年10月18日(平成8年10月18日)
日本武道館で旗揚げ24周年記念試合。
1997年9月26日(平成9年9月26日)
キャピトル東急ホテル 旗揚げ25周年記念パーティー。
1997年10月21日(平成9年10月21日)
日本武道館 旗揚げ25周年記念試合出場。
1998年1月23日(平成10年1月23日)
後楽園ホール 還暦記念試合。
リング上で川田利明、小橋健太、渕 正信組と対戦(ジャンピング・ネックブリーカーで渕から見事フォールを奪う)。
1998年5月1日(平成10年5月1日)
全日本プロレス単独としては初の東京ドーム興行開催(5万8300人の大観衆を集める)。
ハヤブサ、志賀賢太郎と組んで新崎人生、ジャイアント・キマラ、泉田 純組と対戦し、快勝 。
1998年12月5日(平成10年12月5日)
年内最終戦の日本武道館大会出場(国内通算5758戦目)。
シリーズ終了後、検査入院に入る。
1999年1月2日(平成11年1月2日)
新春シリーズは欠場。
1999年1月31日(平成11年1月31日)
午後4時4分、肝不全により永眠。
1999年2月2日(平成11年2月2日)
自宅にて密葬。戒名は顕峰院法正日剛大居士。
1999年4月17日(平成11年4月17日)
最後のリングとなった日本武道館 ジャイアント馬場 お別れの会「ありがとう」。
1999年5月2日(平成11年5月2日)
東京ドームにてジャイアント馬場『引退』記念興行を開催。